2011年9月13日火曜日

003 安土城跡

今回は、滋賀県近江八幡市安土町にある、安土城跡へと行ってまいりました。
安土城といえば、誰もが知っている織田信長の建てた素晴らしい城として名高いですが、築城後3年で本丸が焼失してしまう等、色々悲惨な人生を送ってしまった城でもあります。

今回は、そんな安土城へと登城してまいりましたのでレポートさせていただきます。


入り口の受付で参拝金を払い、早速中に入ると、
「大手道」 と呼ばれる頂上が見えない階段が出てきます。

その階段をゆっくりと登りながら右手を見ると、
(写真撮り忘れていました・・・)
前田利家が居住していた邸宅の跡が見えます。

あれ?一番麓に利家が居るんだ。信長と会いに行く時大変だなー。とか思いながら少し階段を登ると、
次は羽柴秀吉(豊臣秀吉)の邸宅が見えてきます。







イヌ(利家)の家よりサル(秀吉)の家の方がでけえじゃん!! 等考えながら、
秀吉の邸宅から見た安土の町の景色に酔いしれます。


そしてまだまだ登っていきます。 急な階段が多いので、下手な山を登るより体力が・・・

概要 (Wikipediaより引用)

安土城は、現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇ったが、1582年(天正10年)の家臣明智光秀の信長への謀反、いわゆる本能寺の変後まもなくして何らかの原因によって焼失、その後廃城となった。現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧している宣教師ルイス・フロイスなどの記録によってその様子をうかがい知ることができる。
安土城は六角氏観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団、いわゆる「穴太衆」はその後全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった。ただし、安土城に残る当時の石垣の積み方は場所により様々であり、特定の「穴太積み」なる技法の存在を想定するのは難しい。
建造当時は郭が琵琶湖に接していたが、昭和に入って干拓が行われたため、現在は湖岸からやや離れている。安土山の全体に城郭遺構が分布しており、当時の建築としては城山の中腹に所在する摠見寺の境内に仁王門と三重塔が残っている。また二の丸には信長の霊廟が置かれている。滋賀県は1989年(平成元年)から20年計画で安土城の発掘調査を行っており、南山麓から本丸へ続く大手道、通路に接して築造された伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸、天皇行幸を目的に建設したとみられる内裏清涼殿を模った本丸御殿などの当時の状況が明らかとなりつつあり、併せて石段・石垣が修復工事されている。
築城の目的は岐阜城よりもに近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、越前・加賀の一向一揆に備えるため[要出典]上杉謙信への警戒のためでもあった。その規模、容姿は太田牛一宣教師の記述にあるように天下布武、信長の天下統一事業を象徴する城郭であり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。





階段を登り切ると、案内が。
「本丸跡」
「信長 厠」
おっ、ここを真っ直ぐ行けばいいんだな?
まだ階段見えるけど頑張って登ろう!!

しかし空気がよかったです。
この日は天気に恵まれて、絶好の登山日和でした。




次の階段は登りやすく、木陰だったのでゆっくり森林浴を楽しみながら登る事にしました。

そのまま登っていると、途中で二の丸跡が。

少し高台にあったのでそのままスルーして進んでしまいそうになりました。






休憩所っぽい所でお茶を飲みつつ、もう少しで頂上が見えてくる所まで来ました。
天守閣址!!よし!もう少しだ!!


素晴らしい景色でした。
 安土城からみた景色は、周りにビルなど遮る物が無く、
 ちゃんと区画された畑、畑、畑。
本当にいい景観でした。
この景色、大切にしていきたいです。


そして昼には滋賀を出たかったので(時既に11時前)、下山します。
帰りは行きのルートとは別の下山ルートで下山しました。

途中まではずっと下りだったんですが、
下山ルートに入ったら
あれ?
登ってるんだけどwwwwwwwww

と驚きを隠すことができなかったですが、順路に従って登ります。

登ったり下がったりと体力がなかなか大変でしたが、下山した後の麦茶は相当おいしかったです。

今回は私の他に2人程しか居なかったので、気楽に回れました。
こういう城跡も、凄くよかったです。

おまけ

関ヶ原も行って参りました。
笹尾山、石田三成本陣跡から見た関ヶ原の合戦地です。
ここが一番好きな場所です。





2011年9月11日日曜日

002 竹田城跡

長らく間が空きましたが、久々の更新です。

今回は兵庫県の朝来市和田山という所にある、
ご存知の方も多いかと思われますが
日本のマチュピチュと呼び声が高い、
「竹田城跡」
という城跡に行ってまいりましたので、レポートさせていただきます。

右の画像は、地球はすごい!明日の地球様の、
「日本のマチュピチュ?天空の城 竹田城跡」
よりお借りしました。

兵庫県のニュータウンで有名な、ウッディタウン等がある三田市から車で北上し、1時間半少々。


大きな地図で見る

寂れた田舎の山の中に竹田城跡がどっしりと鎮座しております。

S字カーブが多くしかもガードレールが無く危険な山道を抜けていくと、
比較的ちゃんと整備のされた駐車場が2つほど完備されていました。

今回はTwitterの歴史好きのフォロワーさんと
ご一緒に行くことになったので運転は任せて、
私は景色を堪能する事ができました(笑)

私の行った時間帯はまだ他に観光客が居なく、
駐車場はガラ空きでした。

駐車場脇に、竹田城山門というガッシリとした門があり、
門をくぐると階段が出てくるので、それを下り

そこから整備された急勾配もないゆっくりとした道を抜けていきます。






























20分ほど歩くと頂上に着きました。
まだ朝の6時だったので、朝焼けと、周りの山にかかった雲海がとても美しいです。
芝も綺麗で、ちゃんと手入れが行き届いていて、とても山の上にあるような城跡には思えませんでした。

こちらが竹田城の石垣になります。
Wikipediaより竹田城の記事を引用してきました。

概要



縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川川霧により霞むことから、天空の城の異名をもつ。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。国の史跡に指定されている。
東に立雲峡を望む標高353.7メートルの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは、南北約400メートル、東西約100メートル。天守台をほぼ中央に配置し、本丸二の丸三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。
 流石としか言いようのない場所でした。


どこから撮っても素晴らしい写真が撮れるのでこんなに写真撮影が楽しいとは思いませんでした。

語る言葉も見つからないので、
色々な写真をどうぞ。



















こちらのアングルは有名なアングルだと思います。 実物で見ると山の空気もあって、もっと素晴らしいです。

是非とも興味持った方は実際に行っていただきたいです。
朝の雲海を見るには電車では間に合いませんが、
車があればまだ行きやすいので是非。






街中を通ってる高速道路も様になるという、
素晴らしい景観でした。

高い山の多い長野の景色も素晴らしかったですが、
周りの山が低山ばかりのこういった景色もまた一つの味だと思います。

機会があれば、雲海が凄い時に再チャレンジしたいです。